傘
私の住んでいる家の玄関先にはフックがある。
引っ越してすぐは、何用なのかわからなかったが、他住人の玄関先のフックに傘がかかっていたので、傘掛けなのだと、その日から認知し、生活をしていた。
私の使い方としては、雨の日に使った傘をそのまま家に入れると玄関周りがびしょびしょになるし、傘自体も錆びてしまうので、帰ったら傘をフックにかけて、家に入るという雨の日のルーティーンがあった。
その日は来た。
雨の日に出かけようとしたら、フックにかけたはずの傘がなくなっていた。気づいた瞬間に時が止まり、家に入れたのかもと探したが、家の中にもなく、「えっ……。確かに昨日まではあったはずやん…。見かけた記憶がある。うそやん。これは…誰かにやられた…。絶対に誰かにやられた!!」という、ひさびさにふつふつと湧き上がった。
状況として、前日は雨は降っておらず、前日の前日に雨だったので、使った傘をそのままフックにかけて置いていた。
「そのまま置いてたからやろ!」っていうのは重々承知で、なんならなぜしまわなかったんだろうと酷く自分を責めるまである。しかし、だからといって取っていいわけではない!と、今は主張させてほしい。
そもそも傘ってどうしてこんなにも容易いものとされてしまうんだろうか。どこにでもあるから?どこでも手に入るから?いずれにしても買うより誰かのを使ってしまえという考えに至るのはどうかと思う。
この感じを他で例えてみる。例えば学校で、宿題をやらずに誰かに見してもらえばいいやと考えるのと似ている気がする。自分はめんどくさいことをやらずに他の人が頑張ったことを容易く自分のことのようにしてしまうあの感じ。
他はどうだろう。例えば学校で、授業に必要な道具を用意しておかなきゃいけないのに誰かに借りればいいやと考える感じにも似ている。
そういえば、そういう人たちほど要領がよく、なんだか先生には好かれ、彼氏がいて、なんだか人生を楽しそうにしていたのを思い出した。
学生時代の私はというと、こんな例えを出したが、貸したこともあるし貸してもらったこともあるし、なんとも中途半端。そっち側にも、あっち側にもなれない劣等感を持っていたので、銀杏BOYZがよく刺さった。
傘の話に戻る。その取ってしまう側の人がめんどくさがった傘を買うという行為をして手に入れた誰かの傘。それはもう傘そのものと、傘を買うというその人の行為、精神、金銭も一緒に取ってしまっているのを改めて肝に銘じて欲しい。
値段やもののチープさゆえに忘れられがちだが、誰かのものを取るという行為は、対象が自転車や財布や宝石と何ら変わりはない。
そして、忘れちゃいけないのが、コンビニで傘が取られたのではない、私が住んでいる玄関にかけておいた傘が取られてしまったのだ。
コンビニでは雨の日なら店前に傘立てが置いてあり、そこに何本も傘がささっているだろう。店内にも傘とほぼ同じ数の人がいるが、どの傘が誰の傘なのかは追いかけることはなかなかできない。そのために、誰かのものという認識は薄く、取るには罪悪感があまりないのかもしれない。
だが、今回は、私が住んでいる玄関先にかけておいた傘が取られていたのだ。その家に住んでいる人のものと確かにわかるその傘を誰かは取っていってしまったのである。どうだろうか。どういうことだろうか。
そういう考えに至る人が住んでいるマンションに私は住んでいる。
もしかすると、隣の家の人の可能性もある。そう思ったら、隣の家の前を通るたびに扉を睨んでまいそうである。それか、Uber Eatsで頼んだ唐揚げかナゲットかの複数個入っている何かを配達員さんにひとつ食べられてしまえと願ってまいそうになる。はたまた、深夜の時間帯にニンニクが効いた炒飯を作り、窓全開で食べることによって、隣の家の人のお腹が空き、「こんな時間に食べたらあかん」と葛藤させてまいそうになる。
この日から、玄関先のフックに私は傘をかけていない。